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コンスタンツェ・モーツアルト悪女論

2004年11月27日付 Spectrum (プレッセ日曜版)
Mozart: "In mir ist alles leer" (モーツアルト曰く「僕の内は空っぽだ」)

 世紀の音楽の天才を見殺しにした悪妻として、死後なおモーツアルトファンの攻撃の的となっているコンスタンツェ・モーツアルトだが、それについてまた新しく書かれた文章。いかにモーツアルトが晩年貧に苦しんだのか、また病気を口実に療養に行ってモーツアルトの弟子といちゃついていたコンスタンツェがどれほど手痛くモーツアルトを裏切ったのか、これでもかというほど書かれている。内容的には目新しい事実が盛り込まれているわけでもなし、大したことのない文章。

 ただ私は、リーガーという人の『ナンナル・モーツアルト』(モーツアルトの姉)という本で、フェミニズム的観点から歴史を観察すると「天才の周囲において一定の(道徳的)基準を満たさない女性は総じて悪女扱いされる」傾向が見られるという論を読んでなるほどと深く頷くところがあったために、上の文章もその類のものかなと思った次第。

 リーガーはコンスタンツェをけっこうかばっていて、当時モーツアルトの遺体がどことも知れぬ集団墓地に投げ込まれてしまったことも「その時代としては大して不可思議なことでもない」と主張していた。……その真偽については知らないが、それぞれの研究者がそれぞれに歴史を解釈して全く異なる人物像を再構築するので、素人としては色々な文章を読めば読むほど混乱してくるような気もする。一体何が本当のことなのやら。

 ただ、若くして亡くなったモーツアルトという天才は今でも非常に悼まれており、本人以外にその死の責任を負う者がスケープゴートとして必要とされているという風にも見える。そういう存在があれば、気持ちの上でもスッキリするし。「浪費生活を止められなかった本人が一番悪い」じゃ身もフタもないので、取り敢えず「コンスタンツェと結婚したのが間違いだった」としておけば天才の薄幸のイメージはそのまま、その妻を心置きなく攻撃できるというわけ。しかしコンスタンツェばかりを悪者扱いするのはいかにもアンフェアな感じであることも確か。モーツアルト自身に世渡りの能力が欠けていたのも事実なのだから。
 そんなわけで、もう少し公平に物事を見た上で評伝なり何なりを書いて欲しい。上記のリーガー女史はコンスタンツェ伝を執筆する予定などないのだろうか? 彼女なら読みでがあってしかも新しい内容の本を書いてくれるような気がする。
# by hwien | 2004-12-30 14:47 | 文化

東インド会社遣日使節紀行

 『東インド会社遣日使節紀行』とは、1669年にオランダの宣教師であったアルノルドゥス・モンタヌス (Arnoldus Montanus) という人が書いた本なのである。これはヨーロッパで日本について初めて詳細に説明した本で、その後各国語に翻訳された。その本に用があり、今日は図書館に行ってドイツ語版をちょこちょこと読んできた。

 今日行ってきた図書館は王宮内にある『肖像分館 (Porträtsammlung)』というような名前のところで、何で肖像画のところにモンタヌスの本があるのかわからないのだが、とにかく行って来た。しかし肖像画は一枚も見当たらなかった。が、白い手袋がいくつも置いてあった。どうやら貴書珍書の類を触れるのに使うものらしい。モンタヌスの本を読むのに私もあれを使わねばならんのかなと思ったが、いざ本が出て来た時、使えとも言われなかったので素手で触って読んでしまった。
 なんとなく宮尾登美子の『天璋院篤姫』で、篤姫が天皇の手跡による源氏物語を読む機会に恵まれた時に、息を吐く時も脇を向いて、自分の吐息が本に直接かからないように心がけていた場面を思い出してしまった。もちろんモンタヌスにそこまで思い入れのない私はそんなことしなかったけれど、350年前もの本を手にして読めるということにはその篤姫の行為を思い出させるような、ちょっぴり感慨深いものがあった。

 しかし古い本だし、そう簡単に見せてもらえるのだろうかと当初は危ぶんでいた。が、すぐに本を出して来て読ませてくれた。あまりにあっさり本が出てきてびっくり。また私が必要としている箇所が出てきて、その部分の写しをどうしても欲しかったのでダメもとでコピーを頼んだら素直にOKしてもらえ、無料でコピーまでしてもらった。……すごく大らかである。別の分館(写本分館)ではコピーに一枚50円くらい取られたこともあるというのに。同じ国立図書館の分館同士なのになんでこうも違うのだろう。
 まぁ閑古鳥が鳴くくらいヒマそうな分館だったから、サービスの質もいいのかもしれない。何せ2時間いて利用者は私一人だった。利用者ノートというのをめくってみたが、多い日で20人くらいしか人が来ていない。そういう図書館の司書になりたいなぁと、司書を羨んでみたり。

 肝心の本のほうに戻るが、私が今日読ませてもらった『東インド会社遣日使節紀行』のドイツ語訳は1670年に発行された初版本なので市場価格は多分100万円以上するのだ。そんな本から簡単にコピーを取っちゃっていいものなのか気になったりもするが、便宜的には非常に助かったので、そこのところには目をつぶる。
 それと同時にオリジナルのオランダ語版も見たかったのだが、それはまた別の分館にあるということで、そちらのほうは今日は断念。しかしオランダ語版とドイツ語版、同じところにあってもいいと思うのだが、そうでないところがまたウィーン的。

参考: フランス語版だけど、挿絵や装丁はドイツ語版と同じなので、興味のある人はここを見てみるといいかも。フランス語版の値段が83,000ユーロということだから、ドイツ語版もきっとそれくらいの値段がするのだろうと思われる。何せ英語や日本語の復刻版で7万円というのをどこかで見たから、況やオリジナルをや。
# by hwien | 2004-12-28 00:51 |

お世辞

 そうそうあることではないが、ドイツ語の「お世辞」の用法を毎度間違える。何か褒められると、私の「謙譲の美徳」がムクムクと頭をもたげ、私をして「でもそれってお世辞でしょう」と言わしめるのである。ここまではいい。しかし「お世辞」という単語 (Kompliment) はドイツ語においてあまり否定的な意味合いを持たないようなのである。従って相手は「そう、褒めているんだよ」と不思議な顔をして頷き、私は「あ、またやっちゃった」と赤面するのである。学習能力の低い私はこの失敗を何度も繰り返している。

 辞書を見れば日本語の「お世辞」とドイツ語の「Kompliment」はあたかも同義であるかのように書かれているが、実際はそれぞれの単語の中身 (Konnotation) が微妙に違うわけである。外国語を学習するというのは、そういった各単語の微妙な差異まで学んでいかなくてはいけないということで、なんか大変。頭では意味の違いを理解していても、バックグラウンドが日本の私はそれでも単語の用法を間違えてしまう。それ以上に、単語の性を間違えたり、語尾を間違えたり、発音を間違えたりはしょっちゅう。私にとってのドイツ語は永遠に外国語なのである。
 逆に、同時通訳者や政府首脳会談なんかの会議通訳者は一体どんな研鑽を積んでいるのだろうかと思ったりする。バイリンガル的環境で育った人だけが通訳者になっているわけでもないだろうし、特に片方を外国語とする人が通訳者となるのはすごいことのように思う。まぁバイリンガルったってどういうレベルのバイリンガルなのか、それもまた一概には言えないことだろうけれど。
# by hwien | 2004-12-26 16:56 | ことば

フライウンク1

フライウンク1_b0053513_1653122.jpg
フライウンク1_b0053513_1675712.jpg フライウンクの1番地の建物に旧番地を発見。壁と同じ色だから目立たないのだが、しっかり「238」と書いてある。


フライウンク1_b0053513_16125166.jpg

 そしてこちらはフライウンクの6番地、つまりショッテン教会の脇の中庭に続く通り道のところに書いてある数字なのである。数字の下には「いつかそのうちダメって言うまではここ通り抜けてもいいよ」と書いてあるのである。

ウィーン建物番号表示の嚆矢参照のこと
# by hwien | 2004-12-26 16:16 | 街路表示コレクション

翻訳不可能

2004年12月7日付プレッセ
"Her mit den Redewendungen - bis sie sich winden vor Schmerz": Die Unübersetzbare?
(言い回し色々で頭をかきむしるほど。 翻訳は不可能なのか?)

 今年のノーベル文学賞を授与されたエルフリーデ・イェリネクの作品が翻訳不可能かどうかについて論じている記事。私自身はイェリネクの文章そのものを読んで理解することができないので、自分自身では彼女の作品について云々することができない。読もうとしたことはあったが、散文(らしき文章)からして難解で(さすがノーベル文学賞受賞者)、結局イェリネクの書いた文章は全然読んでいないのである。

 ただ以前FAZの編集長だか何だかをしていたというフランク・シルマッヒャーのインタビューをいつぞや読んだ時に、シルマッヒャーもまた「イェリネクの文章は翻訳できないものなので、どうせならもっと翻訳に向いている作品を書く作家にノーベル賞を授与したほうがドイツ語圏文学全体の興隆につながってよかったのではないか」と語っていて、そんな考え方もあるのかと少しびっくりしたおぼえがある。

 ま、それはそれとしてイェリネクの作品だが、翻訳不可能と言われながらも日本語のほかにも既に英語やチェコ語などにも訳されているし、今回のノーベル賞を機にもっと色々な言葉に訳されていくだろうとのことである。
 イェリネク自身は、「自分の書く文章はオーストリアのドイツ語をぺったんこに押さえ込んでその中身が飛び出してきたところに言葉遊びを詰め込む」というようなことを語っていて、従って同じドイツ語圏でもドイツですら自分の作品は理解されにくいのだから、況や翻訳をやとか何とか言っている。

 こういったコメントに対し、「翻訳に不可能はない」と言い切る柳瀬尚紀氏(著書: 翻訳はいかにすべきか)だったら何と言ったりするのかななどと考えてみたりもするが、不肖の身には結局のところ翻訳に不可能があるのかないのか、さっぱりわからない。まぁ原文そのものを読んで理解する力がないので、私がイェリネク作品の翻訳の可能性について語ったりししょうとするのが土台無理な話なわけであるのだけれど。

その他イェリネク女史がプレッセに寄稿した記事へのリンク:
2003年11月22日 Was ich lese (私が今読んでいる本)
2003年12月30日 Otto Breicha: Schreiben müssen (オットー・ブライヒャ: 書く)
2004年5月8日 Der Joker (ジョーカー)
2004年8月5日 Literatur: Hören Sie zu! (文学: お聞きなさい!)
2004年10月9日 Der faule Denkweg (怠惰な考え方)
# by hwien | 2004-12-26 00:48 |