ドイツの負け犬傾向

2005年2月5日付プレッセ
Akademikerinnen: Kluge Frauen kriegen keine Babys (高学歴女性: 賢い女性は出産しない)

 という調査結果がドイツで発表され、ドイツ自由党(右翼)のある政治家なんかは「あんまり適切でないのばっかりが子供を産んじゃってまぁ (Die Falschen kriegen die Kinder)」とか言ってる。しかし社会民主党(左翼)の女性政治家もその傾向については嘆いているので、みんな本音は同じらしい。

 ここで言う高学歴女性とは、修士以上の学歴を持つ女性をさしているのだと思われる。

 人類学者だか何だかの竹内久美子も一度、なぜ高学歴女性があんまり子供を産まないのか論じていた。うろ覚えなのだが、高学歴女性は生物学的に自分の遺伝子を残すことにあんまり熱心ではなくて、その理由というのは自分の親戚も同じような遺伝子を残してくれるからどうのこうの……というものだったような。しかし彼女の本は胡散臭いので、あんまりまともに信じるもんでもないなという気がする。

 それに対して、上の新聞記事があげている高学歴女性の出産減少傾向の理由は単純明快。要は、男が見つからないから。高学歴女性は男性に敬遠される傾向にあるし、同程度の学歴の男性を見つけるのもあまり簡単ではない。カップルにおいて男性の学歴が女性より上なのはよくあることだが、その反対のカップルは実際少ないし……。しかもオーストリアでもつい最近までは修士の下は学士でなく高卒であったから(学士は存在しなかった)、なおさら修士とそれ以下の学歴の差が大きすぎて高学歴女性のパートナー探しは難しいのだと思われる。

 「結婚に学歴なんか必要ない」というのが、女性の場合まだ当てはまっていることにびっくり。むしろ結婚に学歴が邪魔になってるし、なんだか大変である。しかもこの傾向はドイツだけじゃなくて、日本でもオーストリアでも大まかなところでは同じなのだろうと思われる。あーあ。
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# by hwien | 2005-02-07 07:04 | 社会

マナーの限界

 昔どっかの首相だか誰だかが外国からの賓客を招待して食事に臨もうという時、客が間違ってフィンガーボール(見たことはないが、その名の通り手を洗うための水が入っている小鉢らしい)の水を飲んでしまった。それを見た首相は客に恥をかかすまじと自分も一緒にフィンガーボールの水を飲んだという話を読んだ。このエピソードは有名で、「これぞマナーのお手本」という感じでよく紹介されることがあるが、先日それに似た場面に遭遇した。

 ある日本レストランでの出来事。そのレストランはけっこう食器に凝っていて、灰皿も小さく可愛らしいものが多い。そこで食事をしようとしていたとあるオーストリア人客は、そういった優美な容器が灰皿だとは夢にも思わなかったらしい。寿司を注文して食べようとしたその客は、何と灰皿に醤油をさして寿司を食べ始めたのである。それを見ていた私の口はぽっかん。

 幸いなことにそのオーストリア人は私の連れではなかったので、見て「ありゃりゃ」と思っているだけですんだ。しかし同席している人物がそんな失敗をしてしまったら私もマナーとしてそれにお付き合いすべきなのかどうか、頭を悩ませてしまったのである。キレイに洗ってあるとはいえ灰皿である。フィンガーボールの水を飲むより、灰皿醤油で寿司を食べるほうがハードルが高く、抵抗度も強い。一番いいのは灰皿に醤油をさした時点で注意することだが、それを見逃してしまって相手が既に寿司を食べ始めてしまったら一体どうすればいいのだろう? しかも各テーブルに灰皿はひとつしか置いていない。

 まさに難題中の難題である。が、いくつか私が取るべき行動について考えてみた。
1. わざとらしく文句を言いながら(例: 「もうこのレストランは醤油用の小皿もケチってるの?」)他のテーブルから同じような灰皿を取ってきて、それで自分も寿司を食べる。「日本人のくせに灰皿もわからないのか……」というウェイターの目が痛いような気がするし、それ以前に煙草の灰ガラも微量ながら経口摂取してしまっていることも気になるが、取り敢えずマナーを最重要視する。しかしこれが本当にマナーと言えるのかどうかは、甚だ不明であったりもする。

2. 食べ始めてしまった相手はかわいそうだが、最後までそのまま食べさせるよりはマシと、注意する。しかし注意するのが遅すぎると、恨まれてしまうかもしれない。

3. わざと醤油入り灰皿をひっくり返し(しかしこれには多少の芝居的テクニックが必要とされるかも)、正しい醤油用小皿を渡す。この場合はこぼれた醤油で服にしみを作ったりしないように注意が必要。

4. 相手には構わず、自分だけ正しい小皿で寿司を食べる。灰皿については何も言わない。

 ちなみにあとで上記の客に「灰皿をくれ」と言われていたウェイトレスは数ある灰皿の中からわざわざその客が醤油に使ったものとは別のものを渡していた。これまた小さな気遣いと言えるのかも。(あるいはこれ以上相手に恥をかかせないための武士の情けか……。)
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# by hwien | 2005-02-07 06:33 | 生活・日常

被災地観光の是非

 昨日の新聞に、タイの海岸でトドのように寝そべる5、6人のビール腹欧米中年男性の写真が載っていた。その脇をマスクをした現地人が歩いている。腐臭が漂い、死体がまだあちこちに転がっているであろう被災地で観光を楽しめるその図太さにびっくりした。
 そういった観光客に対する批判もあるだろうが、逆にその観光客が落とす金で何とか生活を成り立たせることができる者たちもいるわけで、一概に批判をするのもどうかなと思ったり。

 話は飛ぶが、一度だけごくごく私的な用事があって1998年の夏にアルバニアの首都ティラナの国連軍キャンプの一部を訪ねたことがあった。その当時のアルバニアは国民の半分以上だか何だかか大がかりなねずみ講に引っかって経済的に大混乱状態にあり、その上大統領選挙があるということで、その選挙が滞りなく行われるように国連とOECD(だったはず)が協力して治安の維持に努めていたのである。

 私が訪ねたのはオーストリアから派遣された国連軍のキャンプだったが、そのキャンプのためにティラナ郊外に立つホテルが接収され、そのホテル内に置かれていた。そう、国連兵士もホテルの部屋に住んでいたのである。(しかしそれを羨ましがってはいけない。最初の数週間は町の広場にテントを立てて、そのテント内に30人からの男たちが寝起きしていたのである。)
 
 当時のティラナは多分北朝鮮と同じくらいに貧しく、観光客なんぞが来るような場所ではない。(町中にたま~に大きなまともな家も立っていたが、その前には銃を持った男たちが立っていた。多分あれはマフィアか何かの家だったのだろう。)従ってそのホテルも閉鎖されていたのだが、国連軍に接収されることで従業員が雇われ、レストランも開かれ、何とかホテルとしての体裁を持つようになったのであった。従業員を見ればみんな痩せて貧弱な体格で英語もドイツ語も何となく話せるような話せないような……というレベルであったが、当時のアルバニアの失業率が80%とも90%ともいう話だったから、多分仕事があるだけで有難いと思っていただろう。

 また同時期にオーストリア国連支部の秘書が必要とされていたのだが、たったひとつの秘書の職に100人、200人の応募があったという。またその中に5ヶ国語、6ヶ国語がペラペラの人間がいくらでも混じっていたという話だ。そういう人たちですら職を見つけられないのが当時のアルバニアの状況だったのである。
 ホテルの従業員にせよ、秘書にせよ、国連平和維持軍が撤収してしまった後はまた失業者に逆戻りであるから、あの後どうなっただろうかと今でも時々思う。

 いずれにせよ、当時のティラナと大被害を蒙った今の東南アジアの観光スポットの風景が私にはいくらか重なって見えるのだ。国連や世界中の国々が義捐金を各国に送ったって、それが被災者一人一人に確実に届くと限ったわけでもなし、それだったら無神経でも傲慢でも何でも客が直接来て金を落として行ってくれるほうがありがたいのでないかな。とにかくその客の存在によって、僅かとはいえその日の現金収入は保障されるかもしれない。

 道徳的には被災地観光は非と言えようが、直接経済支援的には是なのでないだろうか。しかしうろちょろして復興作業を邪魔するのは非。またある程度宿泊施設なり何なり残っていなければいくら頑張ったって観光もリゾートも無理だろうから、全く何もかもぺしゃんこになった地域に行くのも無理な話だろうな。
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# by hwien | 2005-01-04 18:23 | 社会

新年の抱負など

 一年の計は元旦にあるそうなので、今年の目標について。

 しかし特別な目標は、あんまりナイような気がする。取り敢えず一年間元気に働けて勉強できたらそれで満足。あとは頭脳労働の割合を増やせたらなおよし。××デビュー(オペラ座舞踏会でピンクのフリフリを着て踊るなどという華やかなものではない)も夢見てるけれど、そちらはどうなることやら。取り敢えず頑張ってみる。
 
 それから今年こそ一ヶ月も欠かさずに家計簿をつけ、年末に一年間の収支をきっちりと出せるようにする。なおその際の計算は、頭脳活性化のために暗算もしくは算盤でのみ行う。
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# by hwien | 2005-01-04 02:12

ツナミ

 東南アジアの大地震ですっかり「ツナミ」が有名になってしまった。ちなみに「タイフーン (Taifun, -r) 」は日本語の台風が語源ではなく、中国語の「大風 (tai fung) 」が英語に借用されて「typhoon」となり、それがドイツ語で「Taifun」になったということらしい。てっきり日本語から借用されたと思っていた単語なのでこれにはちとびっくり。

 ま、それはいいとして、上の単語はどちらも男性名詞なのである。Taifun のほうは、fung = Wind, -r (男性名詞) = 風なので、Taifun が男性名詞とされたのもわかる。こういう風に元々ある言葉に関連させて外来語から借用した名詞の性を決めることはよくあることなのだ。例えば、英語の story はドイツ語で使われる場合は女性名詞なのだが、これはドイツ語の Handlung (あらすじ)や Geschichte (お話)といった女性名詞と関連付けてやはり女性名詞にされたのだと思われる。

 だがこと「ツナミ」に関してはその関連性が不明なのである。そもそも日本語の「津波」とは、「集まった波」みたいな意味で、そこから考えるとドイツ語の「波 (Welle)」は女性名詞なのだから、「ツナミ」も女性名詞とされるべきではないのかと考えたくなる。あるいは、外来単語や新語をニュートラルなものとして見た場合はこれを中性名詞として分類する場合もある。(中性名詞扱いされている E-mail その好例。尤もこれはドイツでは女性名詞とされているのだが。)その場合、「ツナミ」は中性でもおかしくないと思うのだが、なぜよりによって男性名詞にされたのだろう……? すごく不思議。Duden 辞書をあたってみれば「Hochwasser (洪水、高潮)」と同義とされているが、そうであれば中性名詞である「Wasser」に関連付ければいい話だし……。何か津波、洪水、大水関連で男性名詞ってあったっけと色々考えてみるのだが、何も思いつかない。
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# by hwien | 2005-01-04 02:00 | ことば

コンスタンツェ・モーツアルト悪女論

2004年11月27日付 Spectrum (プレッセ日曜版)
Mozart: "In mir ist alles leer" (モーツアルト曰く「僕の内は空っぽだ」)

 世紀の音楽の天才を見殺しにした悪妻として、死後なおモーツアルトファンの攻撃の的となっているコンスタンツェ・モーツアルトだが、それについてまた新しく書かれた文章。いかにモーツアルトが晩年貧に苦しんだのか、また病気を口実に療養に行ってモーツアルトの弟子といちゃついていたコンスタンツェがどれほど手痛くモーツアルトを裏切ったのか、これでもかというほど書かれている。内容的には目新しい事実が盛り込まれているわけでもなし、大したことのない文章。

 ただ私は、リーガーという人の『ナンナル・モーツアルト』(モーツアルトの姉)という本で、フェミニズム的観点から歴史を観察すると「天才の周囲において一定の(道徳的)基準を満たさない女性は総じて悪女扱いされる」傾向が見られるという論を読んでなるほどと深く頷くところがあったために、上の文章もその類のものかなと思った次第。

 リーガーはコンスタンツェをけっこうかばっていて、当時モーツアルトの遺体がどことも知れぬ集団墓地に投げ込まれてしまったことも「その時代としては大して不可思議なことでもない」と主張していた。……その真偽については知らないが、それぞれの研究者がそれぞれに歴史を解釈して全く異なる人物像を再構築するので、素人としては色々な文章を読めば読むほど混乱してくるような気もする。一体何が本当のことなのやら。

 ただ、若くして亡くなったモーツアルトという天才は今でも非常に悼まれており、本人以外にその死の責任を負う者がスケープゴートとして必要とされているという風にも見える。そういう存在があれば、気持ちの上でもスッキリするし。「浪費生活を止められなかった本人が一番悪い」じゃ身もフタもないので、取り敢えず「コンスタンツェと結婚したのが間違いだった」としておけば天才の薄幸のイメージはそのまま、その妻を心置きなく攻撃できるというわけ。しかしコンスタンツェばかりを悪者扱いするのはいかにもアンフェアな感じであることも確か。モーツアルト自身に世渡りの能力が欠けていたのも事実なのだから。
 そんなわけで、もう少し公平に物事を見た上で評伝なり何なりを書いて欲しい。上記のリーガー女史はコンスタンツェ伝を執筆する予定などないのだろうか? 彼女なら読みでがあってしかも新しい内容の本を書いてくれるような気がする。
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# by hwien | 2004-12-30 14:47 | 文化

東インド会社遣日使節紀行

 『東インド会社遣日使節紀行』とは、1669年にオランダの宣教師であったアルノルドゥス・モンタヌス (Arnoldus Montanus) という人が書いた本なのである。これはヨーロッパで日本について初めて詳細に説明した本で、その後各国語に翻訳された。その本に用があり、今日は図書館に行ってドイツ語版をちょこちょこと読んできた。

 今日行ってきた図書館は王宮内にある『肖像分館 (Porträtsammlung)』というような名前のところで、何で肖像画のところにモンタヌスの本があるのかわからないのだが、とにかく行って来た。しかし肖像画は一枚も見当たらなかった。が、白い手袋がいくつも置いてあった。どうやら貴書珍書の類を触れるのに使うものらしい。モンタヌスの本を読むのに私もあれを使わねばならんのかなと思ったが、いざ本が出て来た時、使えとも言われなかったので素手で触って読んでしまった。
 なんとなく宮尾登美子の『天璋院篤姫』で、篤姫が天皇の手跡による源氏物語を読む機会に恵まれた時に、息を吐く時も脇を向いて、自分の吐息が本に直接かからないように心がけていた場面を思い出してしまった。もちろんモンタヌスにそこまで思い入れのない私はそんなことしなかったけれど、350年前もの本を手にして読めるということにはその篤姫の行為を思い出させるような、ちょっぴり感慨深いものがあった。

 しかし古い本だし、そう簡単に見せてもらえるのだろうかと当初は危ぶんでいた。が、すぐに本を出して来て読ませてくれた。あまりにあっさり本が出てきてびっくり。また私が必要としている箇所が出てきて、その部分の写しをどうしても欲しかったのでダメもとでコピーを頼んだら素直にOKしてもらえ、無料でコピーまでしてもらった。……すごく大らかである。別の分館(写本分館)ではコピーに一枚50円くらい取られたこともあるというのに。同じ国立図書館の分館同士なのになんでこうも違うのだろう。
 まぁ閑古鳥が鳴くくらいヒマそうな分館だったから、サービスの質もいいのかもしれない。何せ2時間いて利用者は私一人だった。利用者ノートというのをめくってみたが、多い日で20人くらいしか人が来ていない。そういう図書館の司書になりたいなぁと、司書を羨んでみたり。

 肝心の本のほうに戻るが、私が今日読ませてもらった『東インド会社遣日使節紀行』のドイツ語訳は1670年に発行された初版本なので市場価格は多分100万円以上するのだ。そんな本から簡単にコピーを取っちゃっていいものなのか気になったりもするが、便宜的には非常に助かったので、そこのところには目をつぶる。
 それと同時にオリジナルのオランダ語版も見たかったのだが、それはまた別の分館にあるということで、そちらのほうは今日は断念。しかしオランダ語版とドイツ語版、同じところにあってもいいと思うのだが、そうでないところがまたウィーン的。

参考: フランス語版だけど、挿絵や装丁はドイツ語版と同じなので、興味のある人はここを見てみるといいかも。フランス語版の値段が83,000ユーロということだから、ドイツ語版もきっとそれくらいの値段がするのだろうと思われる。何せ英語や日本語の復刻版で7万円というのをどこかで見たから、況やオリジナルをや。
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# by hwien | 2004-12-28 00:51 |

お世辞

 そうそうあることではないが、ドイツ語の「お世辞」の用法を毎度間違える。何か褒められると、私の「謙譲の美徳」がムクムクと頭をもたげ、私をして「でもそれってお世辞でしょう」と言わしめるのである。ここまではいい。しかし「お世辞」という単語 (Kompliment) はドイツ語においてあまり否定的な意味合いを持たないようなのである。従って相手は「そう、褒めているんだよ」と不思議な顔をして頷き、私は「あ、またやっちゃった」と赤面するのである。学習能力の低い私はこの失敗を何度も繰り返している。

 辞書を見れば日本語の「お世辞」とドイツ語の「Kompliment」はあたかも同義であるかのように書かれているが、実際はそれぞれの単語の中身 (Konnotation) が微妙に違うわけである。外国語を学習するというのは、そういった各単語の微妙な差異まで学んでいかなくてはいけないということで、なんか大変。頭では意味の違いを理解していても、バックグラウンドが日本の私はそれでも単語の用法を間違えてしまう。それ以上に、単語の性を間違えたり、語尾を間違えたり、発音を間違えたりはしょっちゅう。私にとってのドイツ語は永遠に外国語なのである。
 逆に、同時通訳者や政府首脳会談なんかの会議通訳者は一体どんな研鑽を積んでいるのだろうかと思ったりする。バイリンガル的環境で育った人だけが通訳者になっているわけでもないだろうし、特に片方を外国語とする人が通訳者となるのはすごいことのように思う。まぁバイリンガルったってどういうレベルのバイリンガルなのか、それもまた一概には言えないことだろうけれど。
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# by hwien | 2004-12-26 16:56 | ことば

フライウンク1

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b0053513_1675712.jpg フライウンクの1番地の建物に旧番地を発見。壁と同じ色だから目立たないのだが、しっかり「238」と書いてある。


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 そしてこちらはフライウンクの6番地、つまりショッテン教会の脇の中庭に続く通り道のところに書いてある数字なのである。数字の下には「いつかそのうちダメって言うまではここ通り抜けてもいいよ」と書いてあるのである。

ウィーン建物番号表示の嚆矢参照のこと
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# by hwien | 2004-12-26 16:16 | 街路表示コレクション

翻訳不可能

2004年12月7日付プレッセ
"Her mit den Redewendungen - bis sie sich winden vor Schmerz": Die Unübersetzbare?
(言い回し色々で頭をかきむしるほど。 翻訳は不可能なのか?)

 今年のノーベル文学賞を授与されたエルフリーデ・イェリネクの作品が翻訳不可能かどうかについて論じている記事。私自身はイェリネクの文章そのものを読んで理解することができないので、自分自身では彼女の作品について云々することができない。読もうとしたことはあったが、散文(らしき文章)からして難解で(さすがノーベル文学賞受賞者)、結局イェリネクの書いた文章は全然読んでいないのである。

 ただ以前FAZの編集長だか何だかをしていたというフランク・シルマッヒャーのインタビューをいつぞや読んだ時に、シルマッヒャーもまた「イェリネクの文章は翻訳できないものなので、どうせならもっと翻訳に向いている作品を書く作家にノーベル賞を授与したほうがドイツ語圏文学全体の興隆につながってよかったのではないか」と語っていて、そんな考え方もあるのかと少しびっくりしたおぼえがある。

 ま、それはそれとしてイェリネクの作品だが、翻訳不可能と言われながらも日本語のほかにも既に英語やチェコ語などにも訳されているし、今回のノーベル賞を機にもっと色々な言葉に訳されていくだろうとのことである。
 イェリネク自身は、「自分の書く文章はオーストリアのドイツ語をぺったんこに押さえ込んでその中身が飛び出してきたところに言葉遊びを詰め込む」というようなことを語っていて、従って同じドイツ語圏でもドイツですら自分の作品は理解されにくいのだから、況や翻訳をやとか何とか言っている。

 こういったコメントに対し、「翻訳に不可能はない」と言い切る柳瀬尚紀氏(著書: 翻訳はいかにすべきか)だったら何と言ったりするのかななどと考えてみたりもするが、不肖の身には結局のところ翻訳に不可能があるのかないのか、さっぱりわからない。まぁ原文そのものを読んで理解する力がないので、私がイェリネク作品の翻訳の可能性について語ったりししょうとするのが土台無理な話なわけであるのだけれど。

その他イェリネク女史がプレッセに寄稿した記事へのリンク:
2003年11月22日 Was ich lese (私が今読んでいる本)
2003年12月30日 Otto Breicha: Schreiben müssen (オットー・ブライヒャ: 書く)
2004年5月8日 Der Joker (ジョーカー)
2004年8月5日 Literatur: Hören Sie zu! (文学: お聞きなさい!)
2004年10月9日 Der faule Denkweg (怠惰な考え方)
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# by hwien | 2004-12-26 00:48 |

新訳聖書

2004年12月23日付プレッセ
Bibel Neu: "Und Gott sah alles, was sie gemacht hatte" (新しい聖書)

 ドイツ語圏から54人もの言語学者が集まって現在聖書を新しく訳している最中なのだそうである。目標として「わかりやすく、差別表現(女性差別、ユダヤ人差別など)のないドイツ語訳」が掲げられている。

 今回は「神」という単語にも文脈によって様々な訳語があてられるそうなのだが、それも新しい試みであるらしい。しかしこれに対するウィーンイエズス会のシェルグホーファー神父のコメントは懐疑的である。(まぁイエズス会は何百年も前から保守的な宗派なので、その気持ちはわからないでもないような……。)
 神父の言によると、元々神 (der Gott;男性名詞) というのは異教の女神たちと一線を画するために聖書で男性とされたというのである。それなのに勝手に「神」の代わりの単語を色々聖書に入れてしまうのはどうだろうかという疑問を呈しているらしいのだが、ギリシャ・ローマ神話にもゲルマン神話にも女神だけでなく男の神はいくらでもいたわけで、その神々と一線を画す必要はなかったのだろうか? それが不思議。それだったら「das Gott;中性名詞」にしたほうが本当に一線を画すことができてよかったような……。よくわからんなぁ。

 この試みのえらいところは、必要経費を全て寄付でまかなっているところ。プロテスタントでもカトリックでも、宗教団体から金をもらってしまうと、どうしても自由な訳が制限されてしまうので、寄付をつのって頑張るということらしい。
 ちなみに新訳聖書は2006年秋に出版予定だそうである。

Bibel in gerechter Sprache : 新訳聖書団体のサイトはこちら
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# by hwien | 2004-12-25 17:28 | 文化

献血

2004年12月22日付プレッセ
Bitte eine Gabe: Samen, Blut, Plasma (贈り物に精子、血液、血漿)

 この時期は献血量も増えるのだそうだ。クリスマスを前にして、みんな鷹揚なのねと思わされる現象である。オーストリアは売血制度ではなく献血制度に頼っているので血液は売れないが、精液と血漿は売れる。精液は一度に50ユーロ(約6500円)、血漿は採取するのに一時間ほどかかるが、15ユーロ(2000円強)。精液は悪くないお値段だなと思うがたったの3回しか提供してはいけないそうなので、それで生計を立てていくのは無理である。血漿は血液製剤の材料にするらしいが、どれくらいの量を取られてしまうのかは不明。その多寡によって15ユーロという料金設定(?)が高いか安いか変わってくるような。

 私は女なので、精液が売れるかどうかより卵子が売れるのかどうかということに興味があるが、それについては上の記事には何も載っていない。しかし一度どこかで、卵子は一回の提供につき30万円だか50万円ほどもらえるのだとか読んだおぼえがある。尤もこれはアメリカでの話で、オーストリアの相場は知らない。だがいずれにせよ、精液と違って卵子は採取する工程が複雑だし、卵子提供者も多少の苦痛をしのばねばならないので、値段が高いのだということらしい。しかし卵子にせよ精子にせよ、自分の知らないところでそれを材料に子供が出来ちゃっているかもしれないというのには抵抗感をおぼえる。まぁ自分で何も知らなければそれで済むさと割り切れるならいいのだろうけれど。

 それはそうと、オーストリアの無償で生き血提供制度には大きな欠陥があるような気がする。というのも、献血したいといえば否も応も無しに450mlも血を抜かれてしまうのである。私がかなり前に一度献血した時はそれでも大丈夫だったのだが、今年の夏に再挑戦した時には大変だった。献血直後は何ともなかったがその後2~3週間ほど体調を崩してフラフラになってしまった。早くも「年寄りの冷や水」という嫌な言葉が頭をよぎったほど。
 その経験から450ml献血の無謀さについて学んだ私は、先日献血バスを見かけた際に中に入って「200mlだけ献血したいんですけれど」と言ってみた。が、200mlじゃ用無しと体よく追い払われてしまった。人のお役には立ちたくとも、450mlも生き血を抜かれたくはなしと私もスゴスゴ帰って来たが、オーストリアの赤十字には200ml献血導入についても是非一度検討して欲しいと思った次第。ま、みんな体格よくて450ml献血なんて屁でもないから、200ml献血の必要性については考えも及ばないのだろうけれど。

 ちなみにオーストリアでは、献血後は軽食やお菓子を食べられるだけでなく、ワインも飲み放題である。この大らかさがいいなぁ。
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# by hwien | 2004-12-24 02:32 | 健康

×日後のゴミ

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2004年12月18日付プレッセ
Der Forstwirtschaft: Christbaum in der Krise (山林業: クリスマスツリーの危機)

 クリスマスツリーが値上がりしすぎなのだそうだ。2000年と比較して20%も値上がり。インフレ率よりクリスマスツリーの値上げ率のほうがよっぽど高いのだという。

 クリスマスツリーなんて買ったことがないので全然知らなかったが、平均で20ユーロ(2500円ほど)強くらいするそうだ。しかし40cmくらいのミニクリスマスツリーから、2m以上の大物まで全部を足して割った平均が20ユーロということだろうから、それほど安いとはいえないのかも。普通の家庭だったらけっこう立派な木を飾っているから、毎年50ユーロくらいは散財しているのではなかろうか。

 木のほうは値上がりしているが木の消費は減っているので、売り上げは以前と変わらないらしい。1996年の時点で70%の家庭にクリスマスツリーが飾られていたが、現在ではそれが60%に……。それでも今年だけで200万本の木が売れて、売り上げ合計は4,300万ユーロというのだから大したものだ。しかし小国オーストリアだけで200万本とはけっこうな数である。

 生木の使い捨ては勿体無いから、プラスチックツリーを使うわけにはいかないのだろうかと毎年思う。しかし日本の門松も生木であるからなぁ。いや、だけどあれには松をちょっぴりと成長の早い竹を使ってあるから、それほど勿体無いという感じもしない。でも育つのに何年もかかる木をせいぜい2週間くらいしか飾っておかないのに使い捨ててしまうのにはちょっとため息。まぁクリスマス後にこの木を再利用するため、ウィーン市清掃局が元クリスマスツリーを集めてはいるのだが、果たして何になっているのだろう? 楊枝? はたまた割り箸?
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# by hwien | 2004-12-22 17:33 | 文化

Cワード

2004年12月21日付プレッセ
Politically Correct: Das verpönte C-Wort
政治的公正さ: 禁忌のCワード

 アメリカの話。最近のアメリカでは、FワードならぬCワードという類の言葉まで避けるべしとされているのだそうである。そのCワードとは、クリスマスのC。「メリー・クリスマス」というのは、非キリスト教徒及び無神論者及び無政府主義者(何でここに無政府主義者まで入ってくるのかわからないが、記事にそう書いてあった)にとって意味のない言葉なので、無思慮に口に出すべきじゃないのだそうである。いやでもアメリカ人に住む人間の大半がクリスマスを祝うと思うので、「メリー・クリスマス」でいいんじゃないのと非キリスト教徒の私すら思ってしまうが、それじゃダメらしい。というのも、テレビや広告でもCワードは追放されてしまって今やその代わりに「Happy holidays」が台頭してきているのだそうだ。
 Cワードには、クリスマスツリーも入っていて、「コミュニティツリー」と名前を変えた例もある。

 また教会においてもイエス・キリストが「父なる全能の神の右側に座る」と言わないように気をつけている場合もあるとか。(上のセリフがどういう時に唱えられるのかは知らないが、スタンダードな祈り文句なのであろうと推察される。)というのも、キリストが神の右に座ったら、左利きの人に悪いから。

 ……ここまでくると、言葉狩りというよりは自分で自分の首を絞めているようにも思われなくもない。果たしてそんなのを政治的公正さと呼んでいいのかどうか。こういった自発的言葉狩りはむしろ、些細なことを差別だと言いがかりをつけられることを恐れるあまりのヒステリー的過剰反応のように見える。
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# by hwien | 2004-12-21 21:07 | ことば

EUに加盟する方法

2004年12月20日付プレッセ
Andererseits: Wollen Sie auch EU-Mitglied werden?
(それはそうと、あなたもEU入りしたい?)

 トルコのEU加盟に向けての交渉が正式に始まることを皮肉ってのコラム。これを書いたのはクリスティアン・オルトナーという人だが、月曜日のこの人のコラムは大抵面白い。が、今回のものは今までの中で一番よく書けているんじゃなかろうかと個人的に思った。

 「もしあなたがアジアの小国の首相で、EUにどうしても加盟したいのだったら……」という書き出しで、14か条に渡ってEUに加盟するコツを伝授してくれている。例えば第一か条には、「事務所には青いEUの旗を飾っておきなさい。そうすれば見た目がいいし、何よりヨーロッパの価値観を有しているとの証になるから」と書いてある。三か条には、「ゲルハルド・シュレーダー(ドイツの首相)を頼りなさい(FAX: 0049/188 400-0 と、本当に書いてある)。そしてあなたの国からの出稼ぎ労働者300人以上をベルリンに集めてみせれば、シュレーダー首相は一番の協力者となってくれるだろう」。と、こんな感じ。ちなみに二番目に熱心な協力者となってくれるのはブレア首相ということである。

 私の訳じゃうまくないので、本当はリンク先の記事を自分で読んでみるのが一番。

 トルコ加盟は遂行するにしても、まだまだ50年くらいは時期尚早じゃないかと思うのだが、一体どうなるのやら。
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# by hwien | 2004-12-21 20:48 | 政治・政党